もう一つの初志

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以前、この裁判をはじめ、続けている初志を書きました。

今日、支援してくださる方とお話していて、もう一つ大きなことを思い出しました。

自衛隊インド洋派遣の時だったか、もしかしたら、湾岸戦争のときだったか、ああ、ついに日本は戦争当事国になったんだ、と思いました。

当時、派遣自体を批判する動きは結構ありましたが、これは日本が戦争に参戦することなんだ、たまたま米軍が圧倒的に強いからないけど、日本が爆撃されたりICBMを打ち込まれても仕方ない事態になったんだ、という私の感覚と同じ類のものは報道されませんでした(報道されたのかもしれませんが、あまりテレビを見ない私に届くほどには報道されていませんでした)し、国民の多くの人たちは、そういう意味付けを持って理解しなかったと思います。

改めていま検索してみて、そういう見解を発表している記事を見つけてちょっとうれしく思いました。

小学校の時、日本は世界に誇る憲法第9条がある、と習いました。ほとんどの日本人はそれを習ってきたはずです。しかし、日本全土が廃墟と化した後は、竹やりも武器だという過剰なまでの潔癖さがあったかもしれません。しかし日本人は冷めやすく、そしてなによりも、少しずつ日々の現実に妥協し魂を売ることで、面倒なことがない快適な生活をしてきました。

良しあしは別として、少なからぬ人が体を張ってでもという覚悟で(自分の問題として)自分たちの国の在り方を考えていたのは安保闘争の頃までなのでしょうか。

戦争をしないためには、いくつもの苦渋の決断が必要だと思います。たとえば中学の時に「永世中立国」と習ったスイスは、軍隊もない平和な国、というイメージを持ってましたが、実際には有事の備えを重視し、軍備にも非常に力を入れています。永世中立=軍隊もいらないというようなファンタジーでは、現実の国際社会で中立を保てません。そのスイスも、永世中立を捨てても経済を取るのか(=EU加盟問題)で揺れているようです。

話を戻すと、日々の無関心が、いつのまにか憲法第9条があるのに戦争をする国になってしまった現実に、一個人として、どう責任が取れるのか、それはずっと考えていました。
戦争をしないための、決定的な何かがあるのだとは思えません。
しかし、大事な問題であるなら、自分がおかしいと思ったことにちょっぴり目をつぶって、魂を売るのはやめたい、そんな風に思いました。

原発事故を引き起こした責任、、、おそらく集団的無責任体制と利権に左右される政治・行政は目をつぶってはいけない問題だと感じました。
デモをするのもいいでしょう。政府に抗議の電話をするのもいいし、ネットでいろいろやるのもいいでしょう。多くの人が自分がやれることで社会がよくなるための何かをすればいいと思います。そんなわけで私は様々な矛盾*を感じながらも東電を訴えました。

*:東電の役職員は給料をもらって会社のお金で裁判をしていて、我々は本業の合間に自分のお金で裁判をしているとか、裁判に勝って賠償金をもらっても結局それは電気代の値上げにつながり行って来いだとか、、、、


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