今回、東京電力に対して慰謝料請求という形で、訴訟を提起しましたが、私は「被害者」であると胸を張って言える気持ちにはとてもなれません。確かに、東京電力には聞いたこともないような単位の放射能を放出され、日々食べ物を買うにも水を使うにも神経とお金を使い、子供たちの将来を心配するなど、現実的損害と精神的苦痛も受けたのは事実です。
しかし、同時に東京電力は日本の会社であり、日本の法制度、行政制度の中で合法的に営業してきた会社です。確かに隠ぺい体質とか、原子力村体質とか、政治家や地方との利権の問題とか、いろいろあるのだろうとは思います。しかし、最終的には原発を許し、そうしたいい加減な政治・行政をゆるしてきた私たち日本国民一人一人の責任だと思うのです。
2002年に発覚した東京電力原発トラブル隠し事件があったとき、けしからんことだとは思いましたが、「ああいう親方日の丸体質の会社はい加減だからどうしようもない」、と心の中で悪態をついただけでした。
原子力発電は個人的には嫌いで、科学的には制御できるとしても、それを「人間が正しく制御できる」という前提で考えるべきではないといつも思っていましたが、それで何か行動を起こしたわけではありません。
何かやっても、どうせ変わらない、という気持ちもありましたし、そうやって動くことは、後ろ指を指されたり批判されたりとデメリットこそあれ、少なくとも自分にメリットはありません。
でも、1億3千万の人が(いや、意識が高く、実際に行動する人もいらっしゃるから実際はもう少し減りますが)、そうやって大人の対応をした結果、放射能をまき散らされた諸外国の人はたまったものではありません。
我々日本人に対しては、東京電力が加害者ですが、世界の人々に対しては我々日本人全員が加害者である、と思うのです。(その一番の当事者である東京電力は、私の不安は、私の性格に起因する特異なものだと主張してます。外国のみなさんに対してはなおさらでしょう。そうした態度は、日本人として、大変残念です。)
日本人が持っていたはずの美徳、「人様にご迷惑をおかけしない」、という当たり前のことができず本当に悲しいです。祖母に叱られているかのような感じがします。
チェルノブイリ原子力発電所事故が起こったとき、「どうしてくれるんだよ、こっちまで放射能が来るじゃないか」と思いました。同時に、共産主義の国だからどうしようもない、と思いました。
1996年にフランスが核実験を南太平洋で強行した時、「ふざけんなよ、本国領土内でできないことを外でやるなよ」と思いました。多少フランス製品のボイコットをした程度で(って、そもそもフランス製品をほとんど買ってなかったので結局何もしないに近かった)結局なにもしませんでした。
アメリカのスリーマイル島の事故が起こったとき、やはり「ふざけんなよ、アメリカ人はいい加減だからこういう事故が起こるんだ」と思いました。でも、アメリカなしではやっていけない日本ということを考えると、どうしようもない、と思いましたし、実際、何もしませんでした。
今度は、我々が「ふざけんなよ、日本どうなっているんだ、どう責任を取るんだ」と世界から非難される番です。
本当に最大の努力をして、それでも人知が及ばない事故だったら、仕方ない面があったかもしれません。しかし、多くの関係者が、事故が起こったときに自分の子供や孫が原発の近所に住んでいても同じことをするのか?という基準で、判断していれば起こらなかった事故ではないかと思います。(中には、ジェンナーのように、自分の子供をリスクにさらしてでも研究する人もいますから、それが万全の判断基準だとは思えませんが)
うまくいくように見える形だけ作れば、その中で無責任な判断をしても、個人の責任を問われない、という無責任を助長するシステムが大規模「人災」の裏にあります。
金融危機もそうしたシステムから起こりました。銀行経営者が、無責任にハイリスク・ハイリターンを狙う(失敗した時の責任は0以下にはならないが、成功すると個人的に大きな報酬を得られる)ように仕向けるシステムがあるから、経営者は合理的な判断として、無責任な行動をし、結果的にだれかがどこかで失敗すると、世界中の人が「つけ」を払わされます。100歩譲ってそれは、お金のことだから、まだいいでしょう。
でも、その「つけ」が放射能被ばくという、ものであったら、それは受け入れる人はかなり少ないのではないでしょうか。
ソ連だってとか、アメリカだってとか、フランスもという前に、私たちは世界の人たちに、私たちの政治・行政システムがうまく機能しなかった結果、こういう事態を招いてしまったことに謝らなければならない、、、、いえ、私は謝りたいです。